「無償で当然」という思想


via Stone Sculptures by Hirotoshi Itoh

一つ前のエントリ【どうしてプロに無償で仕事依頼しちゃダメなのか - 原価のある、時間】が、一年以上前の記事なのに何故か突然一昨日から大きな反響をいただいております。
2014/6/13午後2時時点でブックマーク285ユーザ、Facebookのいいね!が11万、Twitterの通知も鳴り続けたまま。
Yahoo!バズニュースとグノシーに取り上げられたのが要因と思われますが、その発端はなんだったのだろうと不思議に思いつつ驚きでいっぱいです。

多くの方に読んでいただき賛否いただいたのと、一年以上前の記事であることを鑑み、少々補足させていただこうと久しぶりにブログ更新します。


まず、当該記事は、私自身がイラストレーターなので、主にクリエーターを視野に入れた内容になっています。そのため、少々の偏りがあることはご承知おきいただけたらと。
次に、私自身過去にむしろ進んで無償で制作を行った事もありますし、全ての無償案件を否定はしていません。また、報酬=金銭と捉えているわけでもなく、繰り返しになりますがケースバイケースと考えています。今後も魅力的な企画をいただけたら「宣伝のため」等の見返り(報酬)一切なくともコラボする事はあると思っています。

ただただ、「無償で当然」と考えている方が案外多いので、そういった方々にちょっと考えて欲しいと思って書いた次第です。
この記事が大きな反響をいただいている事こそが、色んな職種のたくさんの方々が苦渋を飲んだことのある証左だと思います。



「無償で当然」という考え方は、昨今、ネットコンテンツ(特にスマホアプリ)に対してそうみなしている人が多いように思います。
APP Storegoogle playのレビュー欄には、一部課金制の無料アプリに対して「無料といいつつ有料だった」とか「守銭奴」「課金ゲー」「広告うざい」などの意見が案外多いです。
ではそのアプリの開発費はどうやって調達するのでしょうか?開発者はどうやって生活していけば良いのでしょうか?

一方で、数万円単位の課金を多くの人がしているスマホアプリも存在します。
そうした課金アイテムは、アバターアイテムやカードなどのイラスト、テキストの事が多く、体力回復アイテムなどは不人気。つまり、”モノ”として手元に残る、お金を払って”買った”感覚の強いものに課金される傾向がある。

ここにも、「金=モノ」という、物々交換的な原始的経済観念の強い人が多い傾向が見てとれるかなと、そんなことも考えたりします。

逆に言えば、”モノ”を”買った”気にさせるコンテンツ作りが、ネットビジネスの鍵なのかもしれないな、なんて。。

どうしてプロに無償で仕事依頼しちゃダメなのか - 原価のある、時間


Currency Wall Clock via M〓veis e design

ここ数日、"手に職系"のプロに"無償"で仕事を依頼することが続けて話題になってます。


天王寺区広報デザイナー」無償の募集について - Change.orgコチラ
大阪市天王寺区役所が「デザインの力で、行政を変える!!」をキーワードに広報デザイナーを募集するも、区ホームページ・広報紙等にて名前を紹介する代わりに"無償で"制作することが条件だったため、撤回の署名活動が行われている
※追記※これら抗議を受けて大阪市は「学生やアマチュアのボランティア募集」に変更するも、最終的に計画は中止となりました。

好きな人が翻訳を断ってきました - 発言小町コチラ
プロの翻訳家に幾度も無料で翻訳をお願いし、「ご依頼は翻訳会社を経由して下さい」と言われるも、知り合いにお金を要求するのはマナー違反と主張する方の相談が炎上



美容師に「ちょっと軽く切ってくれない?」
ミュージシャンに「新しいCDちょうだいよー」
イラストレーターに「HPのイラスト描いて」……

「友達だから」「ちゃちゃっとテキトーでいいから」などを理由に無償で頼む人はとても多いですが、基本的にはダメです。
親しい間柄で、たまたまタイミングが合った時や結婚式など特別な時にはむしろ喜んでやってくれることも多いですが、その他の場合には承諾してくれたとしても内心あまり良くは思っていないと考えた方がいいです。
「友達だからこそ断りにくい」「有償にしてとは言い出しにくい」と、相手を悩ませています。



プロに無償で仕事を頼む人は、"手に職系"の人達が"技術"をお金に変えて生活しているということを理解できていないのだと思います。
別の言い方をするなら『金=モノ』としか思えていない。


"技術"を無理やりモノに置き換えて例えると、

八百屋さんに「このリンゴ、タダでちょうだい」とか、
「今日の買い物分、全部タダにして」と言っているようなものです。
場合によっては、「数日分の買い物をタダにして」位のこともあるかも。

文頭の天王寺区役所の場合だと、
さらに「ここの店はタダでくれるよー!って宣伝してあげるね」という感じでしょうか。


これだけでもちょっと異常なのが想像つくでしょうか?

"技術料"というのは目に見えないので、"気持ち"に換算されがちなんでしょう。
でも、実際に換算する時に「近い」のは"時間"です。

言うまでもなく、世の中で一番高いのは人件費です。
多くの人が"時間"を売って生活しています。
そんな中、友達に「時間をタダにしろ」というのがどれほどおかしなことかわかるかと思います。

さらに、"手に職系"技術者は一般的な雇用と異なり、時間+αによってその職業が成り立っています。
この+αこそが、その人ならではの"技術"。


同じ職種内には、様々な"技術"を持った人がたくさんいるのだから、"技術"はその業界内で仕事を得るための大事なもの。
買い手がクオリティ、オリジナリティ、値段などで比較検討するのはモノも"技術"も同じです。

例えば牛丼屋をオープンさせようとする時、吉野家松屋の価格を参考に考えますよね?
もし無料、あるいは1杯100円で売ったとしたら、牛丼屋チェーン全体に影響が及び、低価格争いになって自分の首も絞めることになる。
赤字にしかならない価格でしか他社と争えないとなったら、業界全体で品質の低下も起こる。
儲け度外視で質にこだわって頑張っても、副職のない本職の方なら先ず生活から成り立たなくなってしまいます。
その業界で本職のプロとしてやって行きたいなら、なおさら価格には気をつけねばならない。

"技術"の市場原理も同じです。



プロの"技術"をタダにさせるというのは、その人がその業界で生きていくのに大事なものを軽んじる行為なだけでなく、業界全体にまで影響を及ぼしかねないことなんです。
無償や低価格でも引き受ける人がいることが広まったら、業界内での買い叩きも起こりかねない。
だから、あくまで「親しい間柄」で「特別な場合」に「好意」でする場合を除いて、プロの技術者は無償で仕事することを好まないのです。

またプロだからって、否。プロだからこそ、「ちゃちゃっとテキトーに」なんてできないんです。
プロとしてのプライドなどもありますが、いい加減なものが自分の仕事として広まるのは、その"技術"が売り物だけに避けたいのです。
だから好意の無償仕事であっても、殆どの方が有償の仕事と変わらない仕事をしていると思います。



いやいや、だって八百屋さんは仕入れて来てるじゃん!
モノには原価(仕入れ値)があるんだよ。
"技術"はタダでしょ。ちょっとやってくれてもいいじゃん!!

という方もいるかもしれませんが、"技術"を習得し、業界で生き続けるための修練には膨大な時間とお金がかかっています。
制作実費や光熱費などの経費以外にも、技術を発揮させる道具(プロ仕様は高額でケアも大変なものが多い)や、それを支える体力、勉強なんかも原価と言えると思います。

つまり、プロの技術は"原価のある、時間"でもある。



「親しい間柄」の人が、どの「特別な場合」に、
「好意」で、"原価のある、時間"を遣ってくれるか否かはケースバイケース。


ま、ここの測り方が一番むずかしいと言えば難しいんですけどね(笑



*前半にあるリンゴの例え話はデザイナーの友人によるものです。チャットでお互いが過去に受けた狼藉話をしていて、この記事を書こうと思いました。


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*この記事は一年以上前のエントリなので、補足を更新しました→コチラ
 (2014/6/13 追記)

歴史の遺恨と語り方


箱館戦争図 函館奉行所公式ウェブサイトより

大河ドラマ『八重の桜』で取り上げられて注目を受けている幕末。
私がふと思い浮かぶのは、幼い頃に聞いた戊辰戦争の遺恨、因縁なんです。


私は東京生まれなんですが、母の実家は代々会津
子供の頃、お盆には毎年出かけていました。
母の実家は本家なので、小規模ながらもアニメ『サマーウォーズ』のような賑わい。
女達は台所に立ち、子ども達は勝手に遊ぶか、酔っ払った男達の相手。


そんな時、数度に耳にしたのが、薩長への独特な思いと戊辰戦争を忘れないといったセリフ。

そんな事を言っていたのは酔った数人で、周囲はやれやれといった目で見たり、笑ったり。
でも、決して否定はできないといった雰囲気でした。



子どもだったので意味はわからずとも、微妙な話題であることと、なんとなくの嫌な感じをよく覚えてます。

おかげで私は、「九州とか(子どもなので長州と九州と鹿児島があわさってぼんやりした地域像)の話はなんかあって微妙なんだな」とか、「話したら嫌われることもあるのかもしれないな」なんてぼんやり思うようになり、実際に九州や山口の人達と触れるまではあまり良い印象を持ってなかった位に、その発言に引きづられることに。
(よもや九州男と結婚するなんて!しかも九州に住むようになるなんて!!!)



思い起こせばざっと20数年前くらいなので、当時すでに戊辰戦争から約120年。
おいおいおい……と。
オッチャン、ちょっと恨みが長続きし過ぎじゃない?と。


と、思いきや、ありました。

今から27年前の1986年。
戊辰戦争からちょうど120年を記念して和解をと、山口県萩市から福島県会津若松市へ友好都市提携の申し入れがあるも、

会津若松市民の間から「時期尚早である」

「我々は(戊辰戦争の)恨みを忘れていない」

当時の福島県知事松平勇雄を指し「孫がまだ生きている」との意見があり、

拒否。。。


同時期に、現在進行形&市民レベルで恨んでたーー!!!

ぜんっぜん、うらんでた……

(参考:萩市wiki / 会津若松市wiki



ちなみに両者は3.11後、会津若松市萩市からの義援金や支援物資を受け取り、両市長が"はじめて"相互訪問を果たしたとこことにより、積極的な和解への道へ進んでいるようです。(やっと!)

それらを伝えたニュースの見出しやテキストにも因縁が書かれています。

 "会津若松へ長州・萩から義援金 旧敵でも「ありがたい」 - 朝日新聞"
  →今もわだかまりを抱える関係にあるが…
 "「萩市民号」が会津若松市訪問 市長ら懇談、交流促進へ - 山口新聞"
  →今なおしこりが残るとされる両市だが…




しかし、幕末の戦による遺恨や因縁は、福島と山口だけじゃない。
2011年3月の九州新幹線鹿児島ルート全線開通にあたって、鹿児島と熊本、お互いの因縁が表沙汰になりました。


2010年9月、鹿児島-大阪を結ぶ新幹線の名称が"みずほ"で最終調整されていた際、
鹿児島県の伊藤知事は、"みずほ"は過去に東京-熊本間を走行していた寝台車と同じ名前であることを挙げ、

「熊本で止まっていたやつの名前が付いちゃったんですよ。(JRから)事前に相談があったら反対していた」と語り、熊本との因縁をあらわに。
("「熊本で止まってたやつ」新幹線名に知事不満 - 読売新聞 ")


同年翌月には逆に熊本県が、JR九州の採用していた全線開通PRキャラクター"西郷どーん"に対して、

西郷隆盛西南戦争で熊本城に攻め込んだ人物だけに、県民から「熊本には似合わない」と不評であるとして反発。

結果、熊本駅のカウントダウンボードのキャラクターが"くまモン"に差し替えられたことになったんです。
("熊本駅で「くまモン」ボード披露 西郷さんから変更 - 47NEWS")


萩・会津若松もそうだけど、鹿児島・熊本の話もつい最近!!
幕末の因縁、今もぜんぜんアチコチで残ってる!!!




さらには県単位でなく、より個人的な単位での遺恨もある。

私が偶然ネットでみつけた方は、「坂本龍馬があまり好きではない」という。

海援隊大洲藩から借用して初航海へ乗り出すも、紀州の明光丸と衝突して沈没した、いろは丸事件。
その方のご先祖は大洲藩の航海技術者で、海援隊に誘われるも断ったという。
その後いろは丸沈没により、ご先祖様の上司が船舶の監督不行き届きの責任を受けたらしいので、自身のご先祖様もそのとばっちりのいくらかは受けたかもしれないから。
とのこと。


大洲藩にとって億単位の損失ではあるけれども人死は出ていないし、事故なのだから坂本龍馬が悪いとは言い切れない。
交渉術による結果でもあるようだけど、紀州藩が7万両もの賠償金を支払ったことを考えるとむしろ……

正直、傍からみるとちょっと不思議です。
本人もそれがわかっているから、苦笑しながら書いている感じ。


でも、その方いわく「そんな話を小さい頃から聞かされていたので」


私、この一言で納得しました。
三つ子の魂百までじゃないけど、小さい頃に聞かされていたことは残る。


善悪の判断基準がまだ未発達なところに"悪"と仕込まれると、その後、完全なる"善"に転じさせるのは容易ではない。

例え、その事柄は全く"悪"ではないと理解できても、シコリのない真っさらな状態にはなかなかできないんですよね。




では、どうするか。

世界的に見たら、歴史的な遺恨・因縁なんて本当に呆れ返って嫌になるほどある。
それ故に未だ戦って血を流している地域もある。

しかし個人的に考えても、私が九州男と結婚して、九州に住むようになったことを余り好意的には思わない人が親戚にいるかもしれないし、なんかひょっとしたらちょっと申し訳ない感じなのかなといった程度に考えるくらいの不安は、ほんのちょっとだけあるんですよね。
(こんな書き方しかできないくらい、すごく微妙なんです。自分でもなんでこんな風に思うのか理解できなくて笑っちゃう)

たった数回、遺恨や因縁を耳にしただけの私ですら、未だにこんな微妙な気持ちを抱えているんです。

パレスチナでは、アフガンでは、如何ほどか……。



言い古されてますが、やはり歴史の語り方が大事なんだと思います。
負の歴史こそ、気をつけて語らねばならない。

凄惨な事実は語れども、恨みは決して語らないこと。

特に、判断基準が未発達な子どもには、絶対に恨みを語らないこと。

悲しい歴史を繰り返したくないと思うなら、後年に思いを繋ぎたいならば、これを守ることが大事だと改めて思いました。


しかし逆に、子どもにあえて英才教育という名の洗脳を施すことが意図的にも無意識的にも世界中で成されている。
そんなことでは問題は解決しないと、恨みがはらされることも決してないと周知され、根絶されることを祈るばかりです。





(だから、ぶっちゃけ西郷隆盛に良い印象がないのはナイショだよー!)

恐怖のツボ


SEA MONSTERS UNMASKED by Henry Lee 掲載の挿絵"クラーケン"

昨夜NHKで放映された、世界で初めて泳ぐダイオウイカの撮影に成功したドキュメンタリー、見ました?
いやあ、面白かった。想像以上に目が怖いのね(昔のクラーケンのイラストでも、もっと目がかわいいな)なんて思ったりして楽しんだのですが、その一方で私は恐怖症の不安発作に襲われて難儀したのでその話をちょっと。


はじめに発作が起きたのは、潜水ポッドに乗ってイカジュースを撒いているシーン。
なにやら突然動悸がして心臓バクバク&目眩。直ぐに息苦しくなって、なんだろうとちょっと怖くなったんです。
そして気づいた。「このシーンは深海な上に小さな潜水艦じゃなイカ!(viaイカ娘)」
そう、私は暗所恐怖症と閉所恐怖症を併せ持っているんです。
だからこのシチュエーションは複合技で完全アウト。


驚いたのは、恐怖を感じる前に身体症状が先に出たこと。

以前は大抵恐怖が先、もしくは同時だったんですよね。
身体が先に反応するというのは、なかなか根深いんじゃないかしらと考えた時、今まで単純に幼児期のある体験に起因するとしていたのは違うなと思いました。


私の友人に先端恐怖症の子がいるのですが、彼女が一番怖いと感じるのはストローなんです。
「針とかの方が尖ってて怖そうなのに不思議だね」なんて話をしてたら、彼女は生まれた時に涙腺が詰まっていて、ストロー状のもので吸引されたことがあったと判明。
「それだったのかー!!」って大いに膝を打ったことがあっったのですが、私にもそういうのあるのかしら。


暗所&閉所恐怖症と簡単に言っても、怖い/怖くない状況が細かくあるんですよ。

一番苦手かつ悪夢でうなされることが多いのは、薄暗くて身体ギリギリ位に狭いトンネルみたいな所を潜る感じ。
あの身体の自由が利かない感じがものすごく怖くて息苦しくて、CTスキャンMRI検査も苦痛。(検査の時、「狭い所大丈夫ですか?」と聞かれたので「ダメです」と答えたら「うーん…頑張って☆」とだけ言われて決行されたがあります。それだけかい!!)

映画などで見かける、水没したビルの向こう側へ行くために息を止めて急いで泳げ!とかも怖い。(泳ぐorゾンビに殺られるだったら、断然ゾンビに殺られます)

定番のエレベーターも苦手なので積極的には使わないけど、乗れないことはない。

夜寝る時も、もちろん電気は消しません。停電がものすごく怖いです。

でも、田舎の本当に暗い夜中の森とか、お墓とかは割りと大丈夫なんですよねー。

我ながら怖いポイントがよくわからない……。



ヘビが怖いとか、いや犬だとか、虫がダメとか、対生物に関する恐怖については、義母が興味深いことを言っていました。

曰く、その人が恐れる生物は、その人が産まれた時のお産で出た汚物(胎盤や血で汚れた布など)を埋めた地面の上を初めに通った生物であると。

汚物を土に埋める習慣のなくなった今では有効性がありませんが、民俗学的な薄暗さのある逸話で大好きです。
少なくとも義母の生まれ育った大分県では語り継がれている話だそうです。



その他では、人間に"近い"ロボットには不気味さと嫌悪感を抱くという『不気味の谷現象』なんてのも興味深いですよね。

読みたいなと思いつつ未読なんですが、フロイトは『不気味なもの』で、"かつて慣れ親しんだものが抑圧され、隠され、それがあらわになる時に不気味さを感じる"といったようなことを書いているそうで。
私の恐怖症は対象があるわけじゃないのでちょっと違うけど(そもそも不気味と恐怖とは異なるけど)、改めて読みたいなと思いました。

今回のような身体症状の出る恐怖は本当にダメだけど、怖いもの・不気味なものには魅力がある。
独特の吸引力で惹かれますよね。
個人個人の怖さのツボと理由と合わせて、その魅力と、OKな恐怖とNGな恐怖についてもあれこれ考えたくなりました。
私の場合、映画に例えるならどんなスプラッタでもOKだけど、『アビス』は絶対にNGです。笑

ギャンブルがギャンブルを見えづらくする?


Photo:Dollar Push Broom by Mark Wagner


私は宝くじすらギャンブル的に思えて買わないくらい興味がないのだけど、
昔、ホテルのバイトをしていた時、パチスロや競馬好きの人が周囲に沢山いました。
なまじ時給が良いから結構遊べた事も影響していたみたい。
以下はその頃のエピソードです。


とある男の子がある日、バイト先での食事時に
「明日、ハローワークに行くかパチスロに行くかで迷ってるんだ」と言い出した。
みんなはハローワークを勧めました。そりゃそうです。
すると彼は、テーブル上のクルクル回る調味料セットを指さして…

「これを回して、醤油が俺の方に来て止まったら明日ハローワークに行く」と。

私は「その決め方がそもそもギャンブルじゃん!」と笑いながらツッコんだのだけど、
彼にはその意味がわからなかったらしくキョトンとしていた。
ギャンブルに行くか否かをギャンブルで決めるとはコレ如何に。
ともあれ彼は、醤油のお告げに従って翌日はパチスロに行ったのでした。

彼は後に就職したのだけど、就職先は商品先物取引の営業。
「就職先もギャンブル関連か!」とみんなにツッコまれたのは言うまでもない。
バイト先に遊びに来た時にこぼしていたグチは多忙等ではなく、
「毎朝一番に「あれが上がりそうです!」とウソの電話をかけるのがツライ」でした。


またある男の子は、私が漫画家と(1回目の)結婚をする為バイトを完全に辞める時、
(当時会社員でしたがたまに土日などヘルプで行っていた)
「漫画家なんてギャンブルみたいなもんじゃん。
 俺がパチスロやってるのと変わらないよ」と言った。
私は、彼が漫画家という仕事の不安定さを心配してくれたのか、
はたまた何か他意があったのかわからず、
何よりその発言にビックリしちゃってスルーしたのだけれど…。

第一に、モノを生み出す仕事とギャンブルとは全く違うし、
仮にそういう言い方をするならばこの世にギャンブルでない仕事はない。
でも一番大きな違いは、パチスロパチスロ屋が儲かるようにできているから、
搾取されているのと同様という事。
だから、儲かる事があったとしても、遊びの枠を出ない。
ギャンブルを仕事にするならば、胴元にならなければ。
これってギャンブルの基本ですよね?

自身の行動を不確定なものに委ねる事のギャンブル性。
フリーランスの仕事とギャンブルを同様とする思考。
ひょっとしてギャンブルをやっていると、こういうギャンブルに関するシンプルな事が
わからなくなったり、見えにくくなったりするのかしら?と思いました。


…まあ、一人目の男の子に関しては単に"天然"かもしれません。
調味料に託す辺りも、先物の営業になって嘆く所も、
「覚悟なかったんかい!」って笑えちゃうし。
彼は早大文学部出身で、就職後に「本当は小説家になりたい」と言った事がある。
「どんなの書きたいの?」と聞いたら、「タイムスリップもの」と即答。
「いまどきタイムスリップもの!流行ったのいつだよ!」ってツッコまれていた。
「SF」と答えずに「タイムスリップもの」って答える辺りが、ポイント。笑

"チフスのメアリー" と "福島" の象徴性

"チフスのメアリー"をご存知だろうか?
私は金森修・著『病魔という悪の物語 - チフスのメアリー』で知った。

メアリー・マローンはアメリカに移住したアイルランド系移民。
とても料理上手で子供の面倒見も良かったため、多くの家で賄い婦として働いた。
しかし彼女が働いた家々で腸チフス患者が多く出たために強制拘束され検査。
結果、彼女は一切症状の出ない健康保菌者(キャリア)発覚第一号となり、NYを挟むように流れるイーストリヴァーに浮かぶ元無人島・ノース・ブラザー島にあった各種伝染病者が隔離されていたリヴァーサイド病院に収容される事となった。

彼女の事がはじめに報道された時の新聞画像が以下。

『Typhoid Mary(チフスのメアリー)』と書かれ、
フライパンに髑髏を入れる象徴的イラストが添えられている。

彼女ははじめの拘束後、約5年間だけ開放されるも再び収容。
69歳で亡くなるまで生涯リヴァーサイド病院で隔離され続けた。
当然メアリー以外のキャリアも相次いで発覚し、一時的に拘束された者もいた。
中には彼女より多数の感染者・死者を出した者や、食品関係の職に従事する者がいたにも関わらず、彼女だけが一生拘束され続ける事となったのだ。

※詳しくは『病魔という悪の物語 - チフスのメアリー』をぜひ読んでください。
 読みやすい文章で簡潔にまとめつつ問題提起をしているとても良い作品です。
 1cm程の薄さでイラストや写真入り。あっという間に読めます。


『一切症状の出ない健康保菌者(キャリア)』と『放射線』は、
目に見えざる恐怖という共通項を持つ。
完全に症状が出ている患者なら明らかに危険とわかるから感染を避ける事ができる。
しかし健康に暮らしている人が感染源という事は見えないので避けようがない。
放射線もまた見えないけれどもいつの間にか被曝しているかもしれないという代物。

3.11以後、福岡で福島県産品店「ふくしま応援ショップ」の出店が中止されたり、震災廃棄物の処理に関してクレームが絶えないといった問題が相次いでいる。
先日はTwitterで「私はずっと福島の子供たちを心配し応援してきたけど、将来もし私のムスコが福島で育った女の子と結婚したいと言ったら大反対すると思う。福島から北海道に避難してきた子だったらいいけどね。でも5年後10年後に避難してもダメだね。」と発言した札幌の女性を中心に議論となった。
(詳しくはTogetterで→『炎上ツイートから平常運転に戻るまでの一連の流れ』

しかし問題は本当に"福島"だろうか?
"チフスのメアリー"同様、象徴的だからこぞって避けられているのでは?

以下は昨日のニュースで流れた画像である。

(出典元→"東京・多摩地区で高濃度セシウム!“チェルノブイリ基準”上回る")
この地図の汚染状況から言うなら、福島だけを特別視するはおかしい。

また、上記地図で福島県猪苗代湖上部から汚染度の低い地域が伸びている。
私の伯父・伯母・従兄弟が猪苗代町に住んでいるので5月に行ってきた時の
ガイガーカウンター画像が以下。

0.10μSv/h(毎時マイクロシーベルト)である。
これも福島の現実なのだが、特別視されるものだろうか?


つまり、福島だけを特別視している人達は、
放射線への恐怖心を"福島"という象徴に押し付け、つかの間の安心を得たいだけなのだ。
メアリー・マローンが"チフスのメアリー"という象徴として死ぬまで隔離され続けたのと同様に。
そして既に福島は"フクシマ"とカナ表記され、象徴的言語として利用されている。


"チフスのメアリー"の不幸は発覚第一号であった事にもあると思う。
さらに彼女が賄い婦として優秀で料理上手だったという多くの証言。
先に挙げたイラストのように、美味しい料理が実は死に至るものであるというのは実に想像力と創造力を掻き立てられるし、象徴的だ。
実際に"チフスのメアリー"は小説や舞台などのフィクションの題材に使われている。

私達は時に、アイコンとして便利なら、その裏で悲しみ、傷付き、苦しむ人がいようとも、平気で消費する。消費。まさしく消費だ。
私達は“福島”や、“福島で育った子”を、象徴として、アイコンとして消費し、傷つける事は決してしてはならない。

"チフスのメアリー"のような不幸な被害者を今後生まぬためにも、間違った道を歩まぬためにも、語り継いでいくべきだと思う。

山の孤独と街の孤独

夫の実家・大分の山奥は、深刻な過疎化の進む山奥。
すでに老人が数人住んでいるのみで、恐らくあと十数年で無くなる。
…それは暗黙の了解。
だからこそ義母も土地を離れがたく、愛し、慈しみながら暮らしている。

周辺には街頭が一本のみ。
夜の闇はひたすら暗く、黒い。
月と星が出ていれば見事な宇宙が広がるけど、
曇天の夜はまさに漆黒の世界になる。

あたしは幼児期の記憶のせいで酷い暗所恐怖症なのだけど、
これが不思議と怖くないのだ。

お化けとか神様とかはいるなって感じの独特の恐怖感はあるし、
森の中に入って行けるほどの勇気はないのだけど、
東京にいて感じるような恐怖感はない。


それって、山の孤独と街の孤独の違いかなって、
真夜中にひとり目が覚めた時に思った。

山の孤独は深く、深遠。
どんどん自分の内部世界に入っていくような孤独感。
そういうのって、案外心地の良いもので
じっと自分と対峙できるような、暖かい闇。

反面、街の孤独は神経症的だ。
どうしようもなく他人を欲したくなるような孤独感。
自分と対峙することが恐ろしくなる。
本物の闇ってこういうことをいうのかなって。


夫は、本屋はもちろん商店すら近くに全く無い環境で育ったのに
本やマンガ、音楽、美術、歴史、民俗学なんかにもすごく詳しくて
それがとっても不思議だったのだけど、なんとなく分かった気がした。

山の孤独が、彼に文化を欲させたのだろうなって。
とてつもなく強い知識欲を生んだのは山の孤独かなって。
彼の土台を築いたのは山の孤独かもなって。


山奥で、ひとり本を読む若かりし彼を想像して、
あたしはなんだか幸せな気持ちで再び眠りに落ちた。



※このテキストは2009年に書いたものに少々の修正を加えたものです。
 先日帰省した折にも同じ事を感じたので掲載しました。