ビジネス・フォーマルとしてのカツラ

きっかけは夫のツイートだった。
「そういえばヅラの人が死んだ時は、
 ヅラつけたまま棺桶入れるのかな。そりゃそうか。」
それを見た私は「そりゃそうでしょー。だって死に化粧する位だもん」って。

それからしばらく極めてくだらないカツラ談義になったのだけど、
ふと私が昔バイトしてたホテルでの事を思い出した。

私がやってたのは都内のホテルでの、いわゆる配ぜんバイトで、
結婚披露宴とか各種パーティーとかそういったもの専門のウエイトレス。
その人は、そうしたバイト達の上に立ち、指示する立場の人だった。
彼はガタイが大きくて人相も人柄も良くなくて、
なんでこんな人がホテルマンとして働いているのだろうといった風体。
まあでもお客様の前ではそれなりに笑顔で接客はできたから
問題ないのかしらねぇなんて感じだったけど、
特にバイトにはあまりに横柄な態度や言動で好かれておらず、
同僚にも彼に良い印象を持ってる人はいなかった。

そんな彼に異変が起きた。
それはもう誰が見ても明らかな程見る間にハゲていったのだ。
バイト仲間で「キテるよねー」なんて話題になる位に。
その後、私は個展準備でしばらくバイトを休み、久しぶりに出勤したら
彼がフッサフサのおあからさまなカツラを装着してたので必死に笑いをこらえた。
バイトの女の子達も「あれ、バレバレすぎて目を合わせずらいよね」なんて。
ある男の子は「俺、更衣室のロッカーが隣でさ、あの人、着替え終わったら、ふ〜…
ってヅラはずして野球帽にかぶり変えるんだよ。見ないようにすんの辛い!」って。
「それ、隠さなさ過ぎ!フリーダム過ぎでしょ!」ってみんな爆笑した。

しばらくして、彼の事情が伝わって話題になる事はなくなった。
彼はストレスでハゲてしまったのだという。言われてみれば、眉毛も薄くなっていた。
私は切なく思いつつも、あの性格では仕方ないだろうなぁ…と率直に感じた。

その話を夫にしたら、「ああ、彼にとって野球帽がカジュアルヅラだったんだね」と。
なるほど!!!
ただでさえガタイが大きくて威圧感を与える体格かつ人相の良くない彼が
眉毛も薄くなり髪もほとんど無かったとしたら、とてもホテルマンとして働けないだろう。
ひょっとしたら、上から指示があったのかもしれない。
だから彼は別段カツラを隠す事なく、当たり前に更衣室ではずしていたのだ、と。
つまり彼にとってのカツラはビジネス・フォーマル用。
サラリーマンにとってのスーツとネクタイだったのだ。
そういうカツラの用途もあるんだなぁ〜と思ったというお話。

ちなみに彼はその後、髪も眉毛も以前よりキチンと生え、当然カツラは止め、
表情も性格も少し穏やかになり、人相も良くなりました。

メデタシメデタシ。

『父性』の謎

私はかねてより『父性』というものがよく分からない。
いつ芽生えるのか、どういったものなのか。
存在する事は当然わかっているが、その芽生えには
ある程度共に暮らす事が必要なのではないかと考えている。
「妻のお腹の中にいる時から愛しくてならなかった」という男性も多いかと思うが、
それは恐らく妻や子供への愛情であり、『父性』とは別物だと。
母親は妊娠期間に胎動などから『母性』が芽生えていくかもしれないが、
妊娠・出産しない父親の場合、産まれ、共に暮らしたり世話したりしている間に
子供が反応したりしてきた時の感情こそを『父性』と呼ぶのではないだろうか?


私の父親はかなり歪んだ形でしか愛情表現できない人だ。
ハッキリ言ってしまえば何を考えているのか良くわからない人。
取り付く島もなかったり、見え透いたウソで逃げられたり。
かと思いきや、あしながおじさんの様に優しく援助し、紳士的に接してきたり…
全く掴みどころのない人物である。

そんな父が私を撮った、とある8mmビデオがある。
それは余りにも薄気味悪いので封印され、今は存在してるのかさえ分からない。

私がもうすぐ小学校といった位の年頃。
妊娠中から別居状態だった母の同意を得て、私と父は海辺へ一泊旅行に出かけた。
フィルムに映されている私は砂浜で一人きりで遊んでいる。
そのうち、一人遊びに飽きた私はカメラに向かって話しかける。
「ねぇ、パパ!なにしてるの?一緒に遊ぼうよ!」
しかしカメラのこちら側にいる父は返事する事すらなく
ひたすら少女の私の姿をカメラで追い続ける。
私はどんどんレンズに近づき、泣きそうな顔でひたすら訴え続ける。
それでも父はただただ無言で撮り続ける…


私はこれを中学の時にはじめて見て、鳥肌がたった。

今は彼なりの愛情表現と頭では理解できる。
父は私をとても愛しながらも、一緒に遊ぶという行為のできない人だったのだ。
レンズ越しでないと娘と接する事ができなかったのだ。

謎なのは、これも『父性』と言えるのか否か。

ガラスの仮面を『共依存』の視点から読む

実に20年近くぶりにガラスの仮面を一巻から最新刊まで読み返した。
今読み返しても実に面白い傑作。当然、当時とは異なる感慨と感動を得たのだが、殊に主人公・北島マヤと母親の関係が『共依存』的である事が一番気にかかり、またこの視点から書かれたテキストは殆ど無いであろうと思うので書く事にした。

精神医学に興味の無い方にとって『共依存』という言葉自体に馴染みがないと思うが、これについて詳しく説明をすると一冊の本になってしまうので、検索結果リンクと以下に書く補足説明程度でご勘弁いただきたい。

共依存』とは、その字の如く互いに依存してしまう関係性であり、夫婦関係の場合もあるが、母親と娘のケースも非常に多い。父親の不在やDV、アルコール依存等で問題を抱えた母親が娘を自身に依存させるように”無意識”に仕向けてしまう例が圧倒的に多い。母親は不安のあまり、娘を依存させる事によって”自身の存在価値”を見出し、時に娘の健やかな成長を妨げたり、娘の自尊心が育たぬように仕向けるのだ。
自分に自信のない(自尊心の欠落した)子供は母親なしには生きられないと刷り込まれ、『共依存』という関係に取り込まれ、母親はこの甘美さから逃れられない。
こうした母親の行為は無意識的に行われており、悪意はないため、自覚させる事が困難なのが特徴である。


さて、ガラスの仮面において、当初マヤと母親は二人で中華料理店に住み込みで働いている。父親の死因は明かされていないが、母親の「ツラはよくないし何のとりえもない子だよ ほんとに 死んだオヤジに似たのかね 我が子ながらあいそがつきるよ」というセリフから、夫婦関係が上手くいっていたとは考えにくい。
またこのセリフのように、母親はマヤを終始徹底的に罵倒し、褒める事を一切しない。これは愛が無い訳では決してないのが『共依存』の厄介な点で、母親は自分に自信がなく、自己肯定できないために自分の娘の事も肯定できないのだ。しかしこれでは娘に健全な自尊心は育たない。

ここで一例。マヤが学校で人生で初めて芝居をする事になったが、それは国一番バカで醜い女の役だった。
マヤは母親に「あたし…なにもできなくて何のとりえもなくて 母さんがっかりさせてばかりいたけれど きっとうまくやる 母さんに恥なんかかかせないわ ほめてくれるように一生懸命やるわ……だから学校のお芝居みにきてね」と寝床で言う。
母親は「わかったよ!うるさいね!」とだけ返し、マヤが寝た後、彼女に向かって「ごめんよマヤ…おまえがにくくてつらくあたってるんじゃないんだよ ただ…なさけなくてね…」とマヤの頭を撫で、泣きながらつぶやく。
しかし母親は悩んだ末、「おまえのみっともない姿なんてみたくないんだよ…」と、娘にあれほど切望されたにも関わらず見に行くことをしない。

上記から、母親は母親なりにマヤを愛している事。マヤは母親に否定され続けていても母親を愛している事が伺えるかと思う。特殊な形ではあるが…
後に母親がマヤを思ってサナトリウムを抜け出し、彼女の主演映画上映中に亡くなる事からも、その母の死に大きなショックを受けるマヤからもはっきり分かる事になるが、『共依存』的視点無しには両者の愛は少々分かりにくいかもしれない。


共依存』は放っておくと子供が育った時にパーソナリティ障害等を起こす危険性もあり、この治療には先ず依存させている人物(母親)と距離をとることが欠かせない。
ここで登場してくるのが月影千草だ。マヤは女優になる夢を母親に告げるも、「おまえにそんな才能あるもンかね!」と全否定し反対される。しかしどうしても演劇がしたいと家出して月影千草の元へ行く。押しかけてきた母親に月影千草「この子をなんのとりえもない子にしてしまっているのはあなたです!」と言い切り、一悶着あるも追い返し、後に母親から届いた小包と手紙は全て燃やしてしまう。

月影千草は、マヤの才能を見出して育てただけでなく、母親との『共依存』関係を切らせた事においても立役者なのである。

しかし『共依存』とはやはり厄介なもので、幼少期から刷り込まれた事はそうそう簡単に消せないのである。
マヤは女優として確実に成長し、評価を受けつつも「私なんてなんのとりえもない平凡でつまらない女の子でしかない」と繰り返す。このセリフは正に母親に言われ続けてきたものであり、彼女の自尊心はやはり育っておらず、自己評価が常に低いのである。ところがマヤは唯一演技に秀でていたため、そして持ち前の明るさと粘り強さから、この刷り込みと自己評価の低さをバネにする。「だからこそ、何があっても芝居をやめるわけにはいかない」と努力する。
つまり、ガラスの仮面は、現在も増加している『共依存』下にある人々への讃歌でもあるのだ。

なお、『共依存』の子供には、演技が上手いという特徴もある。母親の機嫌をとるため、怒られないため、『いい子を演じる』癖が幼少期から育つのだ。特に幼児期は母親の不在・不機嫌=自分の死に繋がるため、子供は必死に演じる。
この事もマヤの天才的演技力を担う一端となっているのかもしれない。

ひょっとしたらマヤは、舞台を降りた日常では常に『少々内気だが明るくいい子な北島マヤ』を生涯に渡って演じ続けているのかもしれないと考えるのも面白いかと思う。そうなると、何かあれば呆気無く壊れてしまうが透明な『ガラスの仮面』は、彼女が生涯日常生活で演じ続ける『北島マヤという仮面』を示す事となる。
マヤは舞台で様々な仮面をかぶり続けているのではなく、逆に、『北島マヤというガラスの仮面』を割り続けているのだ、と。

最後に、作者美内すずえが『共依存』を意識して描いたのか否かという事について。
私は、全く意識していない所か、その言語さえ知らないかもしれないと思っている。
それはマヤが芝居の時に「なぜ今そういう演技をしたのか?」と問われた時に、しばしば「こうした方がいいと思って…」「私がこの子ならこう言うと思ったから…」と答える事によってその演技の天才性を周囲に知らしめるのと同様、「主人公の家庭はこの方がよいと思った」というのが彼女の答えだと思うからだ。
そしてこの点がまた同時に、漫画家・美内すずえの天才性を裏付けていると。