巨大な怪物、名を失うということ

木曜 寒さで目を覚まして時計を見る。7:05。目覚ましが鳴るまであと5分。隣を見ると夫がいない。猫に起こされてごはんあげてるのかと思い、布団かぶって二度寝。目覚ましが鳴る。隣に夫が寝ている。「あれ?さっき起きてなかった?」「起きてないよ」。あんなに現実感あるついさっきのことなのに夢?そんなまさかと思い出す。夫がいないベッドを柔らかい朝日が照らし、カーテンが揺れている。という所で、夢だったと気づく。うちのベッドルームは遮光ロールカーテンだ。美しい光も揺れるカーテンも幻だったけど、夫がいる世界に帰って来れて良かった。
検温37.2℃ 今日は低めだ。テレビで、ケイト・スペードは躁うつ病だったが適正な治療を行っていなかったと。アメリカの上流階級では自然療法など代替医療に向かう傾向があるとモーリー・ロバートソンが言う。ジョブズはそうだったなと思い出しつつも、双極性障害がまた殺したのかとぐるぐる。この病気の自殺率は異常に高い。特に自殺が多く危険なのは躁うつ混合の時。うつの思考に行動力が伴うから。きっと日々誰かが殺されている。けれど、顔と名前と物語を持つ相手に、人は”誰か“と同様には見れない。
念のため冷えピタをバッグに入れ、ビョーク聴きながら社へ。
通勤車内でケイト・スペード関連を検索するが野良Wi-Fiに邪魔され不安定なのでツイッターで検索してみる。ある預言者が10日前に警告していたことが現実のこととなったというツイートが死ぬほど出てきて死ねと思う。服飾デザイナーの自殺の可能性も書かれてはいたけど、有名スポーツ選手の怪我とか他にもありそうな出来事が死ぬほど羅列されてるのになんで信じるんだよと思う。私は、もし自分の大切な人の自殺を「星が示していた運命」なんて言われたら死ぬほど怒って死ねと思う。自殺の予言が当たったと騒ぐなんてそれとどう違うのか。だから警告に耳を澄ませて気をつけましょう?信者を増やすのは勝手だが人の自殺を宣伝に利用するのは下劣だし愚弄だ。
ケイト・スペード関連テキストをいくつか読む。現在は買収や売却によって一切の株式を有しておらず、ブランド自体にも一切関わっていなかったことを知る。彼女は《ケイト・スペード》というアイコンと化していた。ファッション業界でデザイナー自身がアイコン化することは多いが、存命にも関わらずブランドに一切関わらずアイコンであり続けている例はそう多くはないのではないか。
彼女にとってブランドイメージを崩さないことが最も重要だったと実姉が語っている。そのために入院治療を拒否していたと。彼女は代替医療を考えてなどいなかった。《ケイト・スペード》というアイコンであり続けるために治療を拒否していたのだ。
自身の名前を冠するも自身の計り知らぬ巨大資本が消費されている様は、どのように見えていたのだろうかと思う。それはまるで自分の名前を名乗る顔のない巨大な怪物のようだったのではないかと。
2016年、彼女は「2つの世界を分ける」ために自分の名前を正式にケイト・バレンタインに改名している。バレンタインは祖父のミドルネームだと言う。これは《ケイト・スペード》というアイコンとしての自分と、実際の自分の世界とを分けるためであろう。彼女は既にケイト・スペードという名前を失っていた。巨大な怪物に、その名を奪われていた。
《ケイト・スペード》の”スペード“は、設立時のパートナーであり、現在の夫でもあるアンディ・スペードのファミリーネームだ。彼女は離婚を告げられた時、とうとう”スペード“を突きつけられたのかと思ったのではないか。それはまるで《ケイト・スペード》というかつての自分の名前を持つ、顔のない巨大な怪物に頭から喰われるような思いだったのではないだろうか。
スペードのエース Wikipedia より
少なくとも英語圏の国々においては、スペードのエース〈英: Ace of Spades, スパディル (spadille)[1]としても有名である〉は、ゲームによって多少の差違はあれど、トランプのデッキにおいては伝統的に最高のランクを持つカードとして知られている。一方で、古くからの伝説や伝承においては「死のカード (death card)[2]」として認知されている。
以上は本日の日記からの抜粋です。一部荒々しい言葉や表現がありますが、公開するつもりのない文章として書かれた経緯を尊重し、あえてそのままとしました。ご了承ください。
夫が「別居しているが離婚協議はしていない、抗うつ剤などの服薬もしていた」と、実姉とまた異なった表明をしている報道もありますので、上記はあくまで私の見解です。
冒頭画像は http://middlechildcomplex.tumblr.com/post/8650058294 より引用
禁煙アフォーダンス

Robert Watts /Hand With Cigarette, Pea On Placemat. via MoMA BLOG
週刊文春で"シャブ&飛鳥"と報じられ、先日初公判のあったあの方のTVニュースを観ていたら、覚せい剤中毒更生施設で行われている幾つかの療法の内ひとつが、私が以前自己流禁煙した時と同様だったのでちょっとビックリしました。
それは『疑似摂取』というもので、方法もその名の通り。
注射派の人は、覚せい剤以外の無害な物質を、覚せい剤をやっていた時のように同じ器具を用いて自分で注射する。
炙り派の人も同様に専用パイプで炙って摂取するというもの。
私は現在も止める気のない喫煙者ですが、過去に喉を患って数か月禁煙必須の状態になった事がありまして、その時、正に前述した『擬似摂取』を行ったのです。
禁煙パイプのような触り心地も咥え心地も違うものでは全く満足できなかったので、本物のタバコから葉だけを抜いてティッシュを詰め、先端は紙部分がちょっと焦げ、火がついているようにリアルに着彩。
周囲の人が本物と見間違えた程に命を吹き込んだ自作疑似タバコを持ったり咥えたりだけで、ニコチンガム含む、普通のガム依存等々も一切なく数か月の禁煙に成功。
(端から止める気は無かったので、喉の状態が良くなったのと同時にまた喫煙しはじめましたが・・・)
さてタイトルにある"アフォーダンス"ですが、余り耳慣れない概念なのでバッサリ言うと
私たちの周囲にある物質含めた広義の「環境」が、人や動物などに与える「価値」や「意味」のことです。
例えるなら、"タンスに取っ手が付いていたら引けば良いことがわかる"
これを言い換えると、"タンスの取っ手(環境)が、私たちに引く(意味)と、開けられる(価値)を与えている"
この時、"タンスの取っ手と私たちにはアフォーダンスが存在する" "タンスの取っ手は私たちが開ける行為をアフォードしている"と言います。
スマホのユーザインタフェースやボールペン等々、身近に色んなアフォーダンスが存在してることがわかるかと思います。
しかし、タバコや覚せい剤は本来私たちにアフォードしていません。
使用し、依存した人に発生する、パブロフの犬のような、経験による「刺激」の結果の条件反射として捉えるべきものだと思います。
でも、本当にそれだけなのかなと。。
喫煙者の多くが、単なるニコチン依存ではなく、「行為」への依存も大きいのではないでしょうか?
私の例で言えば、パソコンの前に座るととりあえず一本吸いたくなる。
集中して絵を描いて、ちょっと一息つきながら画面全体を眺めて確認する時、お酒の席でなんとなく、コーヒーと共に、そして食後……
これらから得られるものが「ニコチンの摂取」という「刺激」だけに限られるのであれば、喫煙はパブロフの犬のような条件反射です。
しかしニコチン依存だけの可能性は限りなく低いと、喫煙者の一人として断言します。
タバコを取り出し、指で挟み、咥えるといった一連の「行為」に「意味」があり、喫煙者はそれと同時にニコチン摂取という「価値」を得ている。
この時、タバコと喫煙者の間にはアフォーダンスが存在していると言っても良いのではないでしょうか?
アフォーダンスは「刺激」ではなく「情報」です。
タバコを前にして、喫煙者は「刺激」に反応するというより、タバコという「情報」から「意味」「価値」を見出しているという表現の方がしっくりくる気がします。
目の前に、「意味」と「価値」のあるものがある……かなりキツイですよね。
ここで、冒頭の『疑似摂取』です。
その「行為」に「意味」のあるものが、なんと「価値」を与えない!
例えるなら、幾度も開いて開いて、やっぱりおやつは入ってないと分かりきっている戸棚の扉をまだ開けますか?という感じ。
タバコも薬物もアルコールも、依存から抜け出るのは並々ならぬことだと思います。
当然、身体からの離脱症状もあります。
でも、習慣化した「行為」依存に関しては、『疑似摂取』はかなり有効なのではないかと推測します。
「行為」と「価値」の断絶によって、アフォードしなくなるのではないかなと。
というわけで、禁煙したい方には、ニコチン依存への対処以外に、「行為」依存も断ち切るため、限りなく本物に近い疑似タバコをおしゃぶり代わりにする『疑似摂取』をお勧めします。
…数か月の禁煙には成功しましたが、なにぶん現在進行形喫煙者の私の言葉なので、些か説得力に欠けるのはお許しください。
「行為」依存も、食後などの一定の条件下に発する条件反射なのかもしれませんが、その条件反射は本当に「価値」の不在だけで脱することができるのかが疑問なんですよね。
だから私はアフォーダンスが関係するのではないかと思ったのですが、タバコや薬物、アルコールはやっぱりアフォーダンスと無関係!といった異論反論も受け付けております…。
概念はともあれ、『擬似摂取』には依存脱出の可能性があると思っています。
あと、タイトルは椎名林檎っぽくつけてみただけで、意味を成してません。あいすみません。
日常と非日常の揺らぎ
※注※この記事は2011年8月に書いて、アップし忘れていたものです。
私は元来アニメに興味のないタイプなのだけど、今のTVで面白いのはアニメ『日常』だと思っている。
マンガは過剰なほど好きだけどアニメは殆ど見ていない私ですらそうなのだから、見逃すのは勿体無いな、と。
タイトルにもある『日常』は、あらゐけいいち作のマンガ原作アニメで、前クールからの人気作。
制作は『涼宮ハルヒの憂鬱』や『けいおん!』で有名な京都アニメーション(京アニ)。
『けいおん!!』(第二期)の次に京アニが手がけたのが『日常』である。
私はこれに意味を感じる。
『けいおん!!』の圧倒的とも言える人気を目の当たりにした時、私は「みんな、大きな物語に疲れきっているのかな?」と思った。
セカイ系と呼ばれたりもした、世界がどうにかなるような壮大なストーリー(結果的に僕と君で収まるのではあるが)を追う元気もなく、女子高の軽音部の"日常的"な、取り立てて大きな出来事のおこらない、"普通の物語のようにみえるファンタジー"を眩しいと感じたのではないかと。
当たり前の景色を美しいと感じ、登場人物たちに親近感を持ちながら楽しんだのかと。
しかしそれはやはりファンタジーでしかない。
逆説的に言えば、日常に潜むファンタジーだからこそ眩しいのだが…。
「"日常"的に見えるファンタジー」の次が、「日常にはとんでもない非日常が潜んでいる」と示すように、"一見ありえない世界のように見えながらも『日常』というタイトル"の作品。
そんな折、正に"日常"の呆気なさを痛感させられた3.11が起きた。
圧倒的な津波、余震、手に負えぬ原発…
私はふと、富岡多恵子の著作『波うつ土地』と、西炯子の『生きても生きても』を想起した。
以下、一部抜粋。
富岡多恵子『波うつ土地』
あの大男は、ずっと日常なのだ。非日常も日常で埋めようとした。
日常の基準で非日常を図り、そのシーンを日常でぬりつぶし、
非日常へ飛躍しなかった。
しかもあの男は、日常の苦しみをも避けようとしている。
日常の苦しみを避けているから、非日常が不要なのだ。
西炯子『生きても生きても』”ファンタジーの楽園で”
汚くわずらわしく、難儀なのが”現実”であるとするとき、
そこから逃げたり目をそむけたりする場所。
またそこで生きていこうとする上で、いっとき自分の癒しとなり
跳躍のバネになる拠り所。(中略)
ファンタジーってつまりそういうもんじゃないのかなと思うんだ。
少し前、「ネットとリアルを区別しろ〜」といったような言葉を見かけた。
私はモニタの向こうには生身の人間がいる事を忘れる事の方が恐ろしいと思っており、その感覚を失う、もしくは想像が及ばない事の方が問題だと思う。
このネット(広義で二次元)とリアルは、日常と非日常に照らし合わせると面白いと思う。
アメーバピグ等のアバターチャットでチャット内の彼氏・彼女と夢中になる人達、「三次元より二次元」と、アニメやゲームの登場人物に萌えたりしている人達等々は、ネット・二次元こそが日常的であり、リアル世界は非日常的なのか?
もしくは、リアル世界=日常という前提ありきで、ネット・二次元という非日常的なもので日常をぬりつぶしているのか?
例えば、旅は非日常であるが、定住したら日常である。
では、どの程度暮らしたら日常になるのか?
日々の暮らしでも、ちょっとしたアクシデントに襲われた途端、非日常がたち現れてくる。
電車を乗り過ごして知らぬ土地に降りたった時、それは非日常である。
私達は今、本当に"日常"にいるのだろうか?
それとも、毎日、日々が"非日常"の繰り返しなのだろうか?
少なくとも今は、"ハレ"と"ケ"と分けられるような世界ではないと思う。
どちらもが危うく、日々揺らぎ、一瞬で反転してしまう、そんな世界。
改めて、日常とは、非日常とはなにか?
そんな事をつらつらと思い浮かべている。
…そんな、日常。

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西炯子エッセイ集 生きても生きても (フラワーコミックスルルルnovels)
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「無償で当然」という思想

via Stone Sculptures by Hirotoshi Itoh
一つ前のエントリ【どうしてプロに無償で仕事依頼しちゃダメなのか - 原価のある、時間】が、一年以上前の記事なのに何故か突然一昨日から大きな反響をいただいております。
2014/6/13午後2時時点でブックマーク285ユーザ、Facebookのいいね!が11万、Twitterの通知も鳴り続けたまま。
Yahoo!のバズニュースとグノシーに取り上げられたのが要因と思われますが、その発端はなんだったのだろうと不思議に思いつつ驚きでいっぱいです。
多くの方に読んでいただき賛否いただいたのと、一年以上前の記事であることを鑑み、少々補足させていただこうと久しぶりにブログ更新します。
まず、当該記事は、私自身がイラストレーターなので、主にクリエーターを視野に入れた内容になっています。そのため、少々の偏りがあることはご承知おきいただけたらと。
次に、私自身過去にむしろ進んで無償で制作を行った事もありますし、全ての無償案件を否定はしていません。また、報酬=金銭と捉えているわけでもなく、繰り返しになりますがケースバイケースと考えています。今後も魅力的な企画をいただけたら「宣伝のため」等の見返り(報酬)一切なくともコラボする事はあると思っています。
ただただ、「無償で当然」と考えている方が案外多いので、そういった方々にちょっと考えて欲しいと思って書いた次第です。
この記事が大きな反響をいただいている事こそが、色んな職種のたくさんの方々が苦渋を飲んだことのある証左だと思います。
「無償で当然」という考え方は、昨今、ネットコンテンツ(特にスマホアプリ)に対してそうみなしている人が多いように思います。
APP Storeやgoogle playのレビュー欄には、一部課金制の無料アプリに対して「無料といいつつ有料だった」とか「守銭奴」「課金ゲー」「広告うざい」などの意見が案外多いです。
ではそのアプリの開発費はどうやって調達するのでしょうか?開発者はどうやって生活していけば良いのでしょうか?
一方で、数万円単位の課金を多くの人がしているスマホアプリも存在します。
そうした課金アイテムは、アバターアイテムやカードなどのイラスト、テキストの事が多く、体力回復アイテムなどは不人気。つまり、”モノ”として手元に残る、お金を払って”買った”感覚の強いものに課金される傾向がある。
ここにも、「金=モノ」という、物々交換的な原始的経済観念の強い人が多い傾向が見てとれるかなと、そんなことも考えたりします。
逆に言えば、”モノ”を”買った”気にさせるコンテンツ作りが、ネットビジネスの鍵なのかもしれないな、なんて。。
どうしてプロに無償で仕事依頼しちゃダメなのか - 原価のある、時間

Currency Wall Clock via M〓veis e design
ここ数日、"手に職系"のプロに"無償"で仕事を依頼することが続けて話題になってます。
「天王寺区広報デザイナー」無償の募集について - Change.org→コチラ
大阪市天王寺区役所が「デザインの力で、行政を変える!!」をキーワードに広報デザイナーを募集するも、区ホームページ・広報紙等にて名前を紹介する代わりに"無償で"制作することが条件だったため、撤回の署名活動が行われている
※追記※これら抗議を受けて大阪市は「学生やアマチュアのボランティア募集」に変更するも、最終的に計画は中止となりました。
好きな人が翻訳を断ってきました - 発言小町→コチラ
プロの翻訳家に幾度も無料で翻訳をお願いし、「ご依頼は翻訳会社を経由して下さい」と言われるも、知り合いにお金を要求するのはマナー違反と主張する方の相談が炎上
美容師に「ちょっと軽く切ってくれない?」
ミュージシャンに「新しいCDちょうだいよー」
イラストレーターに「HPのイラスト描いて」……
「友達だから」「ちゃちゃっとテキトーでいいから」などを理由に無償で頼む人はとても多いですが、基本的にはダメです。
親しい間柄で、たまたまタイミングが合った時や結婚式など特別な時にはむしろ喜んでやってくれることも多いですが、その他の場合には承諾してくれたとしても内心あまり良くは思っていないと考えた方がいいです。
「友達だからこそ断りにくい」「有償にしてとは言い出しにくい」と、相手を悩ませています。
プロに無償で仕事を頼む人は、"手に職系"の人達が"技術"をお金に変えて生活しているということを理解できていないのだと思います。
別の言い方をするなら『金=モノ』としか思えていない。
"技術"を無理やりモノに置き換えて例えると、
八百屋さんに「このリンゴ、タダでちょうだい」とか、
「今日の買い物分、全部タダにして」と言っているようなものです。
場合によっては、「数日分の買い物をタダにして」位のこともあるかも。
文頭の天王寺区役所の場合だと、
さらに「ここの店はタダでくれるよー!って宣伝してあげるね」という感じでしょうか。
これだけでもちょっと異常なのが想像つくでしょうか?
"技術料"というのは目に見えないので、"気持ち"に換算されがちなんでしょう。
でも、実際に換算する時に「近い」のは"時間"です。
言うまでもなく、世の中で一番高いのは人件費です。
多くの人が"時間"を売って生活しています。
そんな中、友達に「時間をタダにしろ」というのがどれほどおかしなことかわかるかと思います。
さらに、"手に職系"技術者は一般的な雇用と異なり、時間+αによってその職業が成り立っています。
この+αこそが、その人ならではの"技術"。
同じ職種内には、様々な"技術"を持った人がたくさんいるのだから、"技術"はその業界内で仕事を得るための大事なもの。
買い手がクオリティ、オリジナリティ、値段などで比較検討するのはモノも"技術"も同じです。
例えば牛丼屋をオープンさせようとする時、吉野家や松屋の価格を参考に考えますよね?
もし無料、あるいは1杯100円で売ったとしたら、牛丼屋チェーン全体に影響が及び、低価格争いになって自分の首も絞めることになる。
赤字にしかならない価格でしか他社と争えないとなったら、業界全体で品質の低下も起こる。
儲け度外視で質にこだわって頑張っても、副職のない本職の方なら先ず生活から成り立たなくなってしまいます。
その業界で本職のプロとしてやって行きたいなら、なおさら価格には気をつけねばならない。
"技術"の市場原理も同じです。
プロの"技術"をタダにさせるというのは、その人がその業界で生きていくのに大事なものを軽んじる行為なだけでなく、業界全体にまで影響を及ぼしかねないことなんです。
無償や低価格でも引き受ける人がいることが広まったら、業界内での買い叩きも起こりかねない。
だから、あくまで「親しい間柄」で「特別な場合」に「好意」でする場合を除いて、プロの技術者は無償で仕事することを好まないのです。
またプロだからって、否。プロだからこそ、「ちゃちゃっとテキトーに」なんてできないんです。
プロとしてのプライドなどもありますが、いい加減なものが自分の仕事として広まるのは、その"技術"が売り物だけに避けたいのです。
だから好意の無償仕事であっても、殆どの方が有償の仕事と変わらない仕事をしていると思います。
いやいや、だって八百屋さんは仕入れて来てるじゃん!
モノには原価(仕入れ値)があるんだよ。
"技術"はタダでしょ。ちょっとやってくれてもいいじゃん!!
という方もいるかもしれませんが、"技術"を習得し、業界で生き続けるための修練には膨大な時間とお金がかかっています。
制作実費や光熱費などの経費以外にも、技術を発揮させる道具(プロ仕様は高額でケアも大変なものが多い)や、それを支える体力、勉強なんかも原価と言えると思います。
つまり、プロの技術は"原価のある、時間"でもある。
「親しい間柄」の人が、どの「特別な場合」に、
「好意」で、"原価のある、時間"を遣ってくれるか否かはケースバイケース。
ま、ここの測り方が一番むずかしいと言えば難しいんですけどね(笑
*前半にあるリンゴの例え話はデザイナーの友人によるものです。チャットでお互いが過去に受けた狼藉話をしていて、この記事を書こうと思いました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
*この記事は一年以上前のエントリなので、補足を更新しました→コチラ
(2014/6/13 追記)
歴史の遺恨と語り方
大河ドラマ『八重の桜』で取り上げられて注目を受けている幕末。
私がふと思い浮かぶのは、幼い頃に聞いた戊辰戦争の遺恨、因縁なんです。
私は東京生まれなんですが、母の実家は代々会津。
子供の頃、お盆には毎年出かけていました。
母の実家は本家なので、小規模ながらもアニメ『サマーウォーズ』のような賑わい。
女達は台所に立ち、子ども達は勝手に遊ぶか、酔っ払った男達の相手。
そんな時、数度に耳にしたのが、薩長への独特な思いと戊辰戦争を忘れないといったセリフ。
そんな事を言っていたのは酔った数人で、周囲はやれやれといった目で見たり、笑ったり。
でも、決して否定はできないといった雰囲気でした。
子どもだったので意味はわからずとも、微妙な話題であることと、なんとなくの嫌な感じをよく覚えてます。
おかげで私は、「九州とか(子どもなので長州と九州と鹿児島があわさってぼんやりした地域像)の話はなんかあって微妙なんだな」とか、「話したら嫌われることもあるのかもしれないな」なんてぼんやり思うようになり、実際に九州や山口の人達と触れるまではあまり良い印象を持ってなかった位に、その発言に引きづられることに。
(よもや九州男と結婚するなんて!しかも九州に住むようになるなんて!!!)
思い起こせばざっと20数年前くらいなので、当時すでに戊辰戦争から約120年。
おいおいおい……と。
オッチャン、ちょっと恨みが長続きし過ぎじゃない?と。
と、思いきや、ありました。
今から27年前の1986年。
戊辰戦争からちょうど120年を記念して和解をと、山口県萩市から福島県会津若松市へ友好都市提携の申し入れがあるも、
会津若松市民の間から「時期尚早である」
「我々は(戊辰戦争の)恨みを忘れていない」
当時の福島県知事松平勇雄を指し「孫がまだ生きている」との意見があり、
拒否。。。
同時期に、現在進行形&市民レベルで恨んでたーー!!!
ぜんっぜん、うらんでた……
ちなみに両者は3.11後、会津若松市が萩市からの義援金や支援物資を受け取り、両市長が"はじめて"相互訪問を果たしたとこことにより、積極的な和解への道へ進んでいるようです。(やっと!)
それらを伝えたニュースの見出しやテキストにも因縁が書かれています。
"会津若松へ長州・萩から義援金 旧敵でも「ありがたい」 - 朝日新聞"
→今もわだかまりを抱える関係にあるが…
"「萩市民号」が会津若松市訪問 市長ら懇談、交流促進へ - 山口新聞"
→今なおしこりが残るとされる両市だが…
しかし、幕末の戦による遺恨や因縁は、福島と山口だけじゃない。
2011年3月の九州新幹線鹿児島ルート全線開通にあたって、鹿児島と熊本、お互いの因縁が表沙汰になりました。
2010年9月、鹿児島-大阪を結ぶ新幹線の名称が"みずほ"で最終調整されていた際、
鹿児島県の伊藤知事は、"みずほ"は過去に東京-熊本間を走行していた寝台車と同じ名前であることを挙げ、
「熊本で止まっていたやつの名前が付いちゃったんですよ。(JRから)事前に相談があったら反対していた」と語り、熊本との因縁をあらわに。
("「熊本で止まってたやつ」新幹線名に知事不満 - 読売新聞 ")
同年翌月には逆に熊本県が、JR九州の採用していた全線開通PRキャラクター"西郷どーん"に対して、
西郷隆盛は西南戦争で熊本城に攻め込んだ人物だけに、県民から「熊本には似合わない」と不評であるとして反発。
結果、熊本駅のカウントダウンボードのキャラクターが"くまモン"に差し替えられたことになったんです。
("熊本駅で「くまモン」ボード披露 西郷さんから変更 - 47NEWS")
萩・会津若松もそうだけど、鹿児島・熊本の話もつい最近!!
幕末の因縁、今もぜんぜんアチコチで残ってる!!!
さらには県単位でなく、より個人的な単位での遺恨もある。
私が偶然ネットでみつけた方は、「坂本龍馬があまり好きではない」という。
海援隊が大洲藩から借用して初航海へ乗り出すも、紀州の明光丸と衝突して沈没した、いろは丸事件。
その方のご先祖は大洲藩の航海技術者で、海援隊に誘われるも断ったという。
その後いろは丸沈没により、ご先祖様の上司が船舶の監督不行き届きの責任を受けたらしいので、自身のご先祖様もそのとばっちりのいくらかは受けたかもしれないから。
とのこと。
大洲藩にとって億単位の損失ではあるけれども人死は出ていないし、事故なのだから坂本龍馬が悪いとは言い切れない。
交渉術による結果でもあるようだけど、紀州藩が7万両もの賠償金を支払ったことを考えるとむしろ……
正直、傍からみるとちょっと不思議です。
本人もそれがわかっているから、苦笑しながら書いている感じ。
でも、その方いわく「そんな話を小さい頃から聞かされていたので」
私、この一言で納得しました。
三つ子の魂百までじゃないけど、小さい頃に聞かされていたことは残る。
善悪の判断基準がまだ未発達なところに"悪"と仕込まれると、その後、完全なる"善"に転じさせるのは容易ではない。
例え、その事柄は全く"悪"ではないと理解できても、シコリのない真っさらな状態にはなかなかできないんですよね。
では、どうするか。
世界的に見たら、歴史的な遺恨・因縁なんて本当に呆れ返って嫌になるほどある。
それ故に未だ戦って血を流している地域もある。
しかし個人的に考えても、私が九州男と結婚して、九州に住むようになったことを余り好意的には思わない人が親戚にいるかもしれないし、なんかひょっとしたらちょっと申し訳ない感じなのかなといった程度に考えるくらいの不安は、ほんのちょっとだけあるんですよね。
(こんな書き方しかできないくらい、すごく微妙なんです。自分でもなんでこんな風に思うのか理解できなくて笑っちゃう)
たった数回、遺恨や因縁を耳にしただけの私ですら、未だにこんな微妙な気持ちを抱えているんです。
パレスチナでは、アフガンでは、如何ほどか……。
言い古されてますが、やはり歴史の語り方が大事なんだと思います。
負の歴史こそ、気をつけて語らねばならない。
凄惨な事実は語れども、恨みは決して語らないこと。
特に、判断基準が未発達な子どもには、絶対に恨みを語らないこと。
悲しい歴史を繰り返したくないと思うなら、後年に思いを繋ぎたいならば、これを守ることが大事だと改めて思いました。
しかし逆に、子どもにあえて英才教育という名の洗脳を施すことが意図的にも無意識的にも世界中で成されている。
そんなことでは問題は解決しないと、恨みがはらされることも決してないと周知され、根絶されることを祈るばかりです。
(だから、ぶっちゃけ西郷隆盛に良い印象がないのはナイショだよー!)
恐怖のツボ

SEA MONSTERS UNMASKED by Henry Lee 掲載の挿絵"クラーケン"
昨夜NHKで放映された、世界で初めて泳ぐダイオウイカの撮影に成功したドキュメンタリー、見ました?
いやあ、面白かった。想像以上に目が怖いのね(昔のクラーケンのイラストでも、もっと目がかわいいな)なんて思ったりして楽しんだのですが、その一方で私は恐怖症の不安発作に襲われて難儀したのでその話をちょっと。
はじめに発作が起きたのは、潜水ポッドに乗ってイカジュースを撒いているシーン。
なにやら突然動悸がして心臓バクバク&目眩。直ぐに息苦しくなって、なんだろうとちょっと怖くなったんです。
そして気づいた。「このシーンは深海な上に小さな潜水艦じゃなイカ!(viaイカ娘)」
そう、私は暗所恐怖症と閉所恐怖症を併せ持っているんです。
だからこのシチュエーションは複合技で完全アウト。
驚いたのは、恐怖を感じる前に身体症状が先に出たこと。
以前は大抵恐怖が先、もしくは同時だったんですよね。
身体が先に反応するというのは、なかなか根深いんじゃないかしらと考えた時、今まで単純に幼児期のある体験に起因するとしていたのは違うなと思いました。
私の友人に先端恐怖症の子がいるのですが、彼女が一番怖いと感じるのはストローなんです。
「針とかの方が尖ってて怖そうなのに不思議だね」なんて話をしてたら、彼女は生まれた時に涙腺が詰まっていて、ストロー状のもので吸引されたことがあったと判明。
「それだったのかー!!」って大いに膝を打ったことがあっったのですが、私にもそういうのあるのかしら。
暗所&閉所恐怖症と簡単に言っても、怖い/怖くない状況が細かくあるんですよ。
一番苦手かつ悪夢でうなされることが多いのは、薄暗くて身体ギリギリ位に狭いトンネルみたいな所を潜る感じ。
あの身体の自由が利かない感じがものすごく怖くて息苦しくて、CTスキャンやMRI検査も苦痛。(検査の時、「狭い所大丈夫ですか?」と聞かれたので「ダメです」と答えたら「うーん…頑張って☆」とだけ言われて決行されたがあります。それだけかい!!)
映画などで見かける、水没したビルの向こう側へ行くために息を止めて急いで泳げ!とかも怖い。(泳ぐorゾンビに殺られるだったら、断然ゾンビに殺られます)
定番のエレベーターも苦手なので積極的には使わないけど、乗れないことはない。
夜寝る時も、もちろん電気は消しません。停電がものすごく怖いです。
でも、田舎の本当に暗い夜中の森とか、お墓とかは割りと大丈夫なんですよねー。
我ながら怖いポイントがよくわからない……。
ヘビが怖いとか、いや犬だとか、虫がダメとか、対生物に関する恐怖については、義母が興味深いことを言っていました。
曰く、その人が恐れる生物は、その人が産まれた時のお産で出た汚物(胎盤や血で汚れた布など)を埋めた地面の上を初めに通った生物であると。
汚物を土に埋める習慣のなくなった今では有効性がありませんが、民俗学的な薄暗さのある逸話で大好きです。
少なくとも義母の生まれ育った大分県では語り継がれている話だそうです。
その他では、人間に"近い"ロボットには不気味さと嫌悪感を抱くという『不気味の谷現象』なんてのも興味深いですよね。
読みたいなと思いつつ未読なんですが、フロイトは『不気味なもの』で、"かつて慣れ親しんだものが抑圧され、隠され、それがあらわになる時に不気味さを感じる"といったようなことを書いているそうで。
私の恐怖症は対象があるわけじゃないのでちょっと違うけど(そもそも不気味と恐怖とは異なるけど)、改めて読みたいなと思いました。
今回のような身体症状の出る恐怖は本当にダメだけど、怖いもの・不気味なものには魅力がある。
独特の吸引力で惹かれますよね。
個人個人の怖さのツボと理由と合わせて、その魅力と、OKな恐怖とNGな恐怖についてもあれこれ考えたくなりました。
私の場合、映画に例えるならどんなスプラッタでもOKだけど、『アビス』は絶対にNGです。笑

フロイト全集〈17〉1919‐1922年―不気味なもの、快原理の彼岸、集団心理学
- 作者: 須藤訓任,藤野寛
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2006/11/08
- メディア: 単行本
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