日常と非日常の揺らぎ

※注※この記事は2011年8月に書いて、アップし忘れていたものです。



私は元来アニメに興味のないタイプなのだけど、今のTVで面白いのはアニメ『日常』だと思っている。
マンガは過剰なほど好きだけどアニメは殆ど見ていない私ですらそうなのだから、見逃すのは勿体無いな、と。

タイトルにもある『日常』は、あらゐけいいち作のマンガ原作アニメで、前クールからの人気作。
制作は『涼宮ハルヒの憂鬱』や『けいおん!』で有名な京都アニメーション京アニ)。
けいおん!!』(第二期)の次に京アニが手がけたのが『日常』である。
私はこれに意味を感じる。
けいおん!!』の圧倒的とも言える人気を目の当たりにした時、私は「みんな、大きな物語に疲れきっているのかな?」と思った。
セカイ系と呼ばれたりもした、世界がどうにかなるような壮大なストーリー(結果的に僕と君で収まるのではあるが)を追う元気もなく、女子高の軽音部の"日常的"な、取り立てて大きな出来事のおこらない、"普通の物語のようにみえるファンタジー"を眩しいと感じたのではないかと。
当たり前の景色を美しいと感じ、登場人物たちに親近感を持ちながら楽しんだのかと。
しかしそれはやはりファンタジーでしかない。
逆説的に言えば、日常に潜むファンタジーだからこそ眩しいのだが…。

「"日常"的に見えるファンタジー」の次が、「日常にはとんでもない非日常が潜んでいる」と示すように、"一見ありえない世界のように見えながらも『日常』というタイトル"の作品。

そんな折、正に"日常"の呆気なさを痛感させられた3.11が起きた。
圧倒的な津波、余震、手に負えぬ原発

私はふと、富岡多恵子の著作『波うつ土地』と、西炯子の『生きても生きても』を想起した。
以下、一部抜粋。
 
富岡多恵子『波うつ土地』

 あの大男は、ずっと日常なのだ。非日常も日常で埋めようとした。
 日常の基準で非日常を図り、そのシーンを日常でぬりつぶし、
 非日常へ飛躍しなかった。
 しかもあの男は、日常の苦しみをも避けようとしている。
 日常の苦しみを避けているから、非日常が不要なのだ。


西炯子『生きても生きても』”ファンタジーの楽園で”
 
 汚くわずらわしく、難儀なのが”現実”であるとするとき、
 そこから逃げたり目をそむけたりする場所。
 またそこで生きていこうとする上で、いっとき自分の癒しとなり
 跳躍のバネになる拠り所。(中略)
 ファンタジーってつまりそういうもんじゃないのかなと思うんだ。



少し前、「ネットとリアルを区別しろ〜」といったような言葉を見かけた。
私はモニタの向こうには生身の人間がいる事を忘れる事の方が恐ろしいと思っており、その感覚を失う、もしくは想像が及ばない事の方が問題だと思う。
このネット(広義で二次元)とリアルは、日常と非日常に照らし合わせると面白いと思う。

アメーバピグ等のアバターチャットでチャット内の彼氏・彼女と夢中になる人達、「三次元より二次元」と、アニメやゲームの登場人物に萌えたりしている人達等々は、ネット・二次元こそが日常的であり、リアル世界は非日常的なのか?
もしくは、リアル世界=日常という前提ありきで、ネット・二次元という非日常的なもので日常をぬりつぶしているのか?

例えば、旅は非日常であるが、定住したら日常である。
では、どの程度暮らしたら日常になるのか?
日々の暮らしでも、ちょっとしたアクシデントに襲われた途端、非日常がたち現れてくる。
電車を乗り過ごして知らぬ土地に降りたった時、それは非日常である。

私達は今、本当に"日常"にいるのだろうか?
それとも、毎日、日々が"非日常"の繰り返しなのだろうか?

少なくとも今は、"ハレ"と"ケ"と分けられるような世界ではないと思う。
どちらもが危うく、日々揺らぎ、一瞬で反転してしまう、そんな世界。

改めて、日常とは、非日常とはなにか?
そんな事をつらつらと思い浮かべている。
…そんな、日常。


波うつ土地・芻狗 (講談社文芸文庫)

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西炯子エッセイ集 生きても生きても (フラワーコミックスルルルnovels)

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